西欧化に向けての雌伏
07 31, 2016 | Posted in Europa Universalis III | Thema ゲーム » ゲームプレイ日記
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織田信長が西欧諸国の植民地運動に抗すべく外征を起こして約100年の間に、東南アジアの多くの地域に日本は領地を獲得しました。

実はこの100年の間に何とかスペインとの友好度を上げ、領地を接触させようと試みたのですが、これが上手くいきません。
どんなに友好度を上げても、領地が隣接した途端に侮辱の嵐で友好度の100超キープが出来ないのです。
友好度100超は西欧化トリガーに必須ですから、これでは全くお話になりません。
調べると、どうやら国力に差がありすぎると西欧諸国は侵略対象と見做して友好度を低くしようとするようなのですね。
つまり真っ当に西欧化しようとするなら、ある程度の国力を整えてからでないと……というわけなのですね……

何とか侮辱されないで友好関係を構築できたのは、1709年にニュージーランドにてポルトガルと接触したときのことです。
貴族共和制では8年ごとに官僚型・外交官型・軍人型で統治者を変えることが出来るため、この時は外交型の統治者が役に立ちました。
1709年、信長はイベリア半島よりオセアニアに進出してきていたポルトガルと友好条約を結び、西洋製の新型武器の輸入を開始しました。

しかしここで問題が。貴族共和制では中央集権を-1までしかペナルティ無しでは下げられなかったのです。
西欧化には-2の中央集権度が必要……織田信長はやむなく象徴天皇と化した天皇家に再び権力を集中させます。
この安定度の低下が、無駄な数年間を生じさせます。

信長は続けて優れた西欧の各種ドクトリンを正式に日本に取り入れるため、大名会議を期限無しで停止させ天皇家の権威の元に文化の抜本的改革に乗り出しました。これにより1700年代に日本の産業技術は飛躍的に進歩することになります。

しかし大名会議の停止と急激な西欧化の動きは、保守的な大名達の反発を招きました。
これに対しては信長は自ら討伐軍を率い、毅然とした対応を行いました。

信長は西欧化を進めると並行して、西欧諸国と競って東南アジアへの植民を進めると同時に、1738年には海賊対策法・1750年には学校成立法を施行し内政にも力を入れました。

西欧の文化が庶民へと浸透したと確証した信長は、1755年に軍隊組織をも完全に西欧化することに成功しました。
歩兵部隊はオラニエ公マウリッツの軍事ドクトリンの元に再編され、騎兵はカラコール戦術を習得し、砲兵は薬室式のデミキャノン部隊へと変化しました。

日本の西欧化が成功したことを確認した後、信長は再び天皇家を象徴化させ大名会議を復活。
議決を元に常設の官房機関に内政を行わせる管理共和制へと移行しました。
ちなみに、管理共和制では統治者の称号は「総督」です……護国卿ではないのね。
アジアでは最新鋭の軍隊で東南アジアで勢力を伸ばす日本に、明は軍国主義に対する警告文を送りました。

そして緊張の高まる中、1762年に明から日本へ宣戦布告がなされます。
信長は先手を打って東南アジア方面軍を東アジアに送り、歩兵4万・騎兵2万・砲兵2万の計8万人の軍隊を中国本土へ上陸させました。

1.5倍以上の兵力差だろうが、マウリッツ歩兵とカラコル騎兵の敵ではない!(怖かったけれど)

この戦いで、信長は明から福建省・浙江省・江蘇省・山東半島を割譲させました。
結構損耗も激しく、ちょうどいい頃合いの和平が結べました。
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